■やまぐちバーチャルアートミュージアム
山口県立美術館、山口県立萩美術館・浦上記念館の代表的な所蔵作品(コレクション)を、オンライン上のバーチャル美術館でご紹介します。
「香月泰男のシベリア・シリーズ」「雪舟と雲谷派」「山口ゆかりの作家たち」など、5つのテーマを設けた仮想展示室で、じっくりお楽しみください。
■雪舟と雲谷派・その他の作家



【雪舟と雲谷派・その他の作家】日本画

雪舟等楊 せっしゅう・とうよう SESSHU, Toyo 1420-1506
備中(岡山)出身。京都・相国寺で水墨画を学ぶ。1464年(寛正5)以前に山口に来て、大内氏のもとで活動。1467年(応仁1)に入明。明画の新しい手法に触れ、帰国。帰国後は、晩年まで山口を拠点に活動。美濃や丹後など各地に旅して制作を行う。中国宋元時代の画家に倣いながら構築的な山水画で独自の境地を拓いた。
![]() 山水図巻 |
![]() 牧牛図(牧童) |
![]() 牧牛図(渡河) |
![]() 束帯天神図 |
牧牛図(牧童) ・・・ Herdsman and water buffaloes / 15世紀 / 紙本墨画淡彩 / 30.2×31.4
牧牛図(渡河) ・・・ Herdsmen and water buffalo / 15世紀 / 紙本墨画淡彩 / 30.3×31.5
束帯天神図 ・・・ Tenjin God / 1493 / 紙本墨画淡彩 / 102.0×47.4

【雪舟と雲谷派・その他の作家】日本画

雲谷等顔 うんこく・とうがん UNKOKU, Togan 1547-1618
雲谷派の祖。肥前国藤津郡能古見城主原豊後守直家の二男という。名は直治、通称治兵衛。はじめ狩野永徳あるいは松栄について絵を学んだと伝わる。1593年(文禄2)毛利輝元より雪舟の旧居雲谷庵と雪舟筆《山水長巻》を授けられ雪舟流の継承者を任じられる。京都にもたびたび出向き、東福寺や大徳寺塔頭の襖絵を制作したことが知られる。1611年(慶長16)法橋に、最晩年には法眼に叙せられた。1618年(元和4)5月3日没。72歳。
楼閣山水図 ・・・ Landscape / 桃山時代17世紀初 / 紙本墨画淡彩 / 右147.0×346.4 左145.9×345.5

【雪舟と雲谷派・その他の作家】日本画

雲谷等益 うんこく・とうえき UNKOKU, Toeki 1591-1644
雲谷等顔の二男。兄、等屋の早世により雲谷宗家を継ぎ、「雪舟四代」を唱えた。周防・長門を中心に活躍したが、大徳寺内の塔頭の襖絵を手がけるなど京都における活躍ぶりがうかがえる。1626年(寛永3)法橋に叙せられる。父の等顔よりも江戸時代的な平明さを加味した作風を完成させた。雲谷派の流派体制を確立し、雲谷派隆盛の礎を築いた。1644年(寛永21) 2月14日没。54歳。

【雪舟と雲谷派】日本画

雲谷等與 うんこく・とうよ UNKOKU, Toyo 1612-1668
雲谷等益の長男。等益没後雲谷宗家を継ぎ「雪舟五世」を称した。周防長門地方をはじめ、大徳寺碧玉庵襖絵を描くなど、京都方面でも活躍した。1639年(寛永16)法橋。1667年(寛文7)法眼に叙せられた。等益様式を継承した画風を展開した。1668年(寛文8) 1月17日没。57歳。

【雪舟と雲谷派】日本画

雲谷等爾 うんこく・とうじ UNKOKU, Toji 1615-1671
雲谷等益の二男。等與の弟。雪景または澹溪とも号した。1637年(寛永14)までに一家を構え、1639年(寛永16)法橋叙位。高野山安養院の障壁画制作が知られるほか、1655年(明暦1)には、兄の等與、斎藤等室とともに禁裏造営に参加した。1671年(寛文11) 4月30日没。57歳。

【雪舟と雲谷派】日本画

うんこく・とうはん UNKOKU, Tohan 1635-1724
雲谷等益の四男。1663年(寛文3)宗家であった長男等與の養子となり、1668年(寛文8)家督を相続。「雪舟六世」を称した。1664年 (寛文4)に法橋、1675年(延宝3)法眼に叙せられた。1709年(宝永6)に隠居。父等益の影響よりは、むしろ雪舟画の影響を色濃くのこした作品を数多く描いている。1724年(享保9) 2月6日没。90歳。

【雪舟と雲谷派】日本画

狩野松栄 かのう・しょうえい KANO, Shoei 1519-1592
狩野元信の三男。名は直信、通称源七郎、大炊助、剃髪して松栄と号した。兄たちの早世により家督を継ぐ。1553年 (天文22)父元信の助手として石山本願寺の障壁画制作に参加。1563年 (永禄6)大徳寺に《大涅槃図》を制作して寄進。1566年(永禄9)大徳寺聚光院障壁画を息子の永徳と共に制作。父の元信、子の永徳の間にあって知名度は低かったが、その暖かみのある優しい画風は高く評価されるようになっている。1592年(天正20) 10月20日没。74歳。

【雪舟と雲谷派】日本画

狩野秀頼 かのう・ひでより KANO, Hideyori ?-?
生没年不詳。桃山から江戸初期に活躍したと見られるが、伝歴については不明の点が多い。1569年(永禄12)の年紀がある《神馬図額》(島根県賀茂神社蔵)を描いており、元信の孫の可能性が高い。代表作に国宝《高雄観楓図屏風》(東京国立博物館蔵)がある。

【森派と森寛斎】日本画

森寛斎 もり・かんさい MORI, Kansai 1814-1894
萩出身。若くして大阪に出て森徹山に入門。その養子となる。表向きには徹山の実子として京都を拠点に活動し、幕末には、志士として国事に奔走した。維新後は如雲社の中心人物として、京都画壇で重きをなした。晩年には京都府画学校に出仕し、帝室技芸員を拝命。南画的なやわらか味を加えた気品あふれる絵を描いた。1894年(明治27)6月2日没。81歳。
松林瀑布山水図 ・・・ Waterfall in a Pine Forest / 1868 / 絹本墨画 /144.8×86.5
京人形図 ・・・ Legend of Kyoto Doll / 1885 / 絹本着色 /128.8×50.3

【森派と森寛斎】日本画

森周峰 もり・しゅうほう MORI, Syuho 1738-1823
森狙仙の兄。はじめは父(森如閑斎)に、のちに狩野派の吉村周山、月岡雪鼎に師事。1776年(安永5)前後には法橋に叙せられ、1802年(享和2)までには法眼位を得て、森派の中心的存在として活躍。弟狙仙とは一線を画し、狩野派の伝統的画法を駆使しつつも、山水画などでは没骨法を用いて新しい局面を拓いた。1823年(文政6)6月22日没。86歳。

【雪舟と雲谷派・その他の作家】日本画

森狙仙 もり・そせん MORI, Sosen 1747(?)-1821
森周峰の弟。名は守象,字は叔牙、号は初め「祖仙」のちに「狙仙」。出身地は諸説あってはっきりしない。大坂で活躍。当初狩野派に学ぶが、旧来の画法にあきたらず、円山応挙に通じる写実的描法を試みた。猿の絵で名高く「猿書き狙仙」の異名をとり、動物画を得意とする森派の典型を築いた。1821年(文政4)7月21日没。75歳(?)。

【日本の近現代美術】洋画

高橋由一 たかはし・ゆいち TAKAHASHI, Yuichi 1828-1894
江戸出身。初め狩野派を学び、のち幕府の蕃書調所画学局に入り川上冬崖に師事、次いでイギリス人画家のワーグマンに油絵技法を学ぶ。明治に入って大学南校教官となり、1873年(明治6)日本橋浜町に私塾天絵楼を設立。原田直次郎ら多くの弟子を養成。西洋画導入期において抜群の質感表現や遠近法を体得し、日本油彩画の先駆者として静物画・風景画を多く遺した。1894年(明治27) 7月6日没。67歳。

【日本の近現代美術】彫刻

新海竹太郎 しんかい・たけたろう SHINKAI, Taketaro 1868-1927
山形出身。仏師新海宗松の長男。19才で上京、近衛騎兵大隊に入営。満期除隊後、後藤貞行の門に入り彫刻を学ぶ。1894年(明治27)、第9回彫刻競技会で銅賞。1898年(明治31)岡倉天心、橋本雅邦等と日本美術院を創立、正会員となる。1900年(明治33)フランスに渡り、次いでベルリン美術学校に学び、大作彫塑構造の研究をし、1902年(明治35)帰国。太平洋画会に彫刻部を創設して、西洋彫刻の道を拓き、1907年(明治40)、文部省美術展覧会(文展)が創設されるとその審査委員となり、《ゆあみ》を出品。1917年(大正6)帝室技芸員、1919年(大正8)帝国美術院会員となり、日本彫刻界の重鎮として活躍。1927年(昭和2)3月12日没。59歳。

【日本の近現代美術】彫刻

戸張孤雁 とばり・こがん TOBARI, Kogan 1882-1927
東京出身。本名亀吉、旧姓志村。1901年(明治34)洋画研究のため渡米。帰国後1907年(明治40)太平洋画会研究所に入ったが、1910年(明治43)荻原守衛に刺激され彫刻に転じる。ロダンの影響を受けた、光と影を取り入れた美しい肉づけで、大正期彫刻界で異彩を放つ。日本水彩画会や日本創作版画協会の創立に参加し、挿絵画家、版画家としても著名。1927年(昭和2)12月9日没。46歳。

【日本の近現代美術】日本画

小野竹喬 おの・ちっきょう ONO, Chikkyo 1889-1979
岡山県出身。竹内栖鳳に師事。1916年(大正5)文展で《島二作》が特選となる。1918年(大正7)土田麦僊らと国画創作協会を結成。1947年(昭和22)京都市立美術専門学校(現:京都市立芸術大学)教授。戦後は日展で重きを成す。1951年(昭和26)文化勲章。一貫して日本の自然に取り組み、風景画の分野に新たな視点を示し続けた。1979年(昭和54)5月10日没。89歳。

【日本の近現代美術】日本画

玉村方久斗 たまむら・ほくと TAMAMURA, Hokuto 1893-1951
京都府出身。本名は善之助。京都市立美術工芸学校を経て、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒。1930年(昭和5)方久斗社をおこし、1935年(昭和10)総合団体新興美術家協会を組織(のち美術新協と改称)。公募展を開催し、1943年(昭和18)歴程美術協会、明朗美術連盟と合同。1951年(昭和26)11月8日没。58歳。

【日本の近現代美術】日本画

まつもと・たけお MATSUMOTO, Takeo 1901-1996
京都府出身。京都の図案家の二男として生まれる。兄は日本画家の。京都市立美術工芸学校(現:京都市立芸術大学)中退。菊池桂月塾に入門。1927年(昭和2)に《おふね》が第10回帝展に入選。以後、帝展・新文展・日展に出品。戦後は、京都御所などの障壁画摸写を手がける。1976−81年 (昭和51−56)まで、桂離宮の大改修に際し、狩野探幽《漁村山水図》などを摸写。復元・摸写の技術で高く評価された。1996年(平成8)5月25日没。95歳。

【日本の近現代美術】洋画

里見勝蔵 さとみ・かつぞう SATOMI, Katsuzo 1895-1981
京都府出身。関西美術学校で、鹿子木孟郎に師事。東京美術学校(現:東京藝術大学)に入学するが、官学アカデミーに失望し、在学中から二科展に出品。1921年(大正10)渡仏、ヴラマンクに師事、佐伯祐三を紹介する。1925年(大正14)帰国、二科展で樗牛(ちょぎゅう)賞、1927年(昭和2)二科賞を受賞。また、1926年(昭和1)に1930年協会を結成。1930年(昭和5)独立美術協会を興し、フォービズムを展開した。戦後は1954年(昭和29)国画会会員となる。原色を多用した生々しいフォービズム調の作品など、反アカデミズム精神あふれる激情的な作品を描いた。1981年(昭和56)5月13日没。85歳。

【日本の近現代美術】日本画

朝倉摂 あさくら・せつ ASAKURA, Setsu 1922-2014
東京出身。父は彫塑家の朝倉文夫。伊東深水に師事し、新美術人協会の設立に参加。1950年(昭和25)創造美術奨励賞を受賞。1951年(昭和26)新制作協会会員となり、1953年(昭和28)、第3回上村松園賞を受賞。現代日本美術展や日本国際美術展などに連続出品するが、1970年(昭和45)新制作協会を退会。舞台美術家として世界的に活躍した。2014年(平成26)3月27日没。91歳。

【日本の近現代美術】彫刻

豊福知徳 とよふく・とものり TOYOFUKU, Tomonori 1925-
福岡県出身。富永朝堂に師事。1950年(昭和25)より新制作派展に参加。1959年(昭和34)《漂流’58》で第2回高村光太郎賞。1960年(昭和35)第30回ベネチア-ビエンナーレ出品を機にイタリア・ミラノに定住し国際的に活躍する。木彫による具象から抽象に転じる。1984年(昭和59)「石声庭」で吉田五十八(いそや)賞。1990年(平成2)毎日芸術賞。

【日本の近現代美術】洋画

中川一政 なかがわ・かずまさ NAKAGAWA, Kazumasa 1893-1991
東京出身。油絵を独習し、1915年(大正4)岸田劉生と知り合い、巽画会に出品して二等賞を受け、草土社の結成に際し同人となる。また二科会にも出品し、1921年(大正10)の《静物》で二科賞を受賞、翌年春陽会の創立に参加。新文展の審査員を務める。1975年(昭和50)文化勲章を受章する。風景や花に取材し、油彩画、日本画、陶芸、書などに奔放な文人画境を示す。また文筆に優れ、多くの著書がある。小林和作と親交があった。1991年(平成3)2月5日没。97歳。

【日本の近現代美術】彫刻

深井隆 ふかい・たかし FUKAI, Takashi 1951-
群馬県出身。1978年(昭和53)、東京藝術大学大学院彫刻専攻修了。1980、1982年(昭和55、57)、日本国際美術展に出品。1983年(昭和58)、埼玉県立近代美術館での「木のかたちとエスプリ展」に出品。1985年(昭和60)、第5回原アニュアルに出品。80年代の新しい感覚を表現する彫刻作家として注目を浴び、現在も活躍を続けている。

【日本の近現代美術】版画

松澤宥 まつざわ・ゆたか MATSUZAWA, Yutaka 1922-2006
長野県出身。1946年(昭和21)、早稲田大学理工学部建築学科卒業。1955年(昭和30)、ウィスコンシン州立大学へフルブライト交換教授として留学、翌年、コロンビア大学大学院で現代美術、宗教美術を研究。1964年(昭和39)、夢で「オブジェを消せ」との“啓示”を受け、以後、物質的な素材に依拠しない「観念美術」を創出。世界的な潮流となったコンセプチュアル・アートの先駆者として評価が高い。2006年(平成18)10月15日没。84歳。

【世界の現代美術】写真

アンセル・アダムズ Adams, Ansel 1902-1984
アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ出身。14歳の時に初めて訪れたヨセミテ渓谷で霊感を得て、その後、生涯にわたって米国の国立公園などの雄大な自然の姿や息吹の感じられる写真を撮り続ける。風景を撮影したモノクロの写真作品により、20世紀アメリカを代表する写真家として知られる。1984年(昭和59)4月22日没。82歳。

【世界の現代美術】写真

ウィン・バロック BULLOCK, Wynn 1902-1975
アメリカ、イリノイ州シカゴ出身。幼少期をカリフォルニアで暮らす。1920年代にはプロのテノール歌手として舞台に立つ。1930年から写真を撮り始め、1938年ロサンゼルスのアートセンタースクールで写真の基礎を学ぶ。1941年から写真家として生計をたてはじめる。1948年から交友を持ったエドワード・ウェストンから影響を受け8×10inchのカメラでストレートな写真を撮影するようになる。1955年ニューヨーク近代美術館での写真展「The Family of Man」ではバロックの《Child in Forest》が1枚目を飾った。1975年(昭和50)11月16日没。63歳。

【世界の現代美術】写真

トマス・シュトルート STRUTH, Thomas 1954-
ドイツ、ゲルデルン出身。1973年から1980年までデュッセルドルフ美術アカデミーで学ぶ。当初絵画を専攻するが、後に写真専攻に転向。1970年代末から欧米、日本など各地で開催された個展、グループ展で作品を発表するとともに、多くの写真集を刊行している。

【世界の現代美術】洋画

ニエーレ・トローニ TORONI, Niele 1939-
スイス、ロカルノ・ムラルト出身。1959年からパリに在住。1966年ダニエル・ビュレンヌらのBMPT「マニフェスタシオンI」に参加。パリ市立近代美術館で30cm間隔に絵筆を押しあてる制作方法を公開。以後展覧会だけでなく、さまざまな場所でこの手法による制作を行う。1992年(平成4)に山口県立美術館で「ニエーレ・トローニ展」を開催。

【世界の現代美術】写真

ウーライ ULAY 1943-
ドイツ、ゾーリンゲン出身。本名ウーヴェ・ライジーペン。若いときから写真に興味をもち、アムステルダムなどで写真作品を発表する。1975年、マリーナ・アヴラモヴィッチと出逢い、ふたりのパフォーマンスは多くの国際展で発表され、世界的な名声を得る。1992年以降、再びヴィデオや写真による作品を発表するようになった。1997年(平成9)、山口県立美術館で「ウーライ展―ベルリン/残像」展開催。ドイツのカールスルーエ美術大学教授。

【戦後日本の写真】写真

木村伊兵衛 きむら・いへえ KIMURA, Ihee 1901-1974
東京出身。写真館経営のあと、1930年(昭和5)花王石鹸広告部の嘱託になる。1932年(昭和7)野島康三らと『光画』を発刊。1933年(昭和8)名取洋之助らと日本工房を設立。その後、中央工房、東方社、サン・ニュース・フォトスなどに在職。スナップ写真を得意とし、戦後は土門拳と共に日本写真界のリーダー的存在となる。1950年(昭和25)日本写真家協会設立と同時に会長に就任。代表作に『木村伊兵衛外遊写真集』、『秋田』など。1974年(昭和49)5月31日没。72歳。

【戦後日本の写真】写真

濱谷浩 はまや・ひろし HAMAYA, Hiroshi 1915-1999
東京出身。1933年(昭和8)オリエンタル写真工業に入社し、渡辺義雄に学び、1937年(昭和12)独立。1939年(昭和14)から新潟の豪雪地帯で撮影、1956年(昭和31)最初の写真集『雪国』を発表。以来、日本の風土と人を撮影し、海外でも活躍。1960年代以降は人を撮影することをせず、風景写真家として活躍。代表作に『裏日本』、『見てきた中国』、『日本列島』など。1999年(平成11)3月6日没。83歳。

【戦後日本の写真】写真

石元泰博 いしもと・やすひろ ISHIMOTO, Yasuhiro 1921-2012
アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ出身。1924年(大正13)高知に帰国。1939(昭和14)再渡米。日米開戦後、日系人収容所に収容。1948年(昭和23)シカゴ・インスティテュート・オブ・デザインに入学、在学中にモホリ・ナギ賞を2度受賞した。1962年(昭和37)、東京綜合写真専門学校教授。1968年(昭和41)東京造形大学教授。1969(昭和44)日本国籍取得。1996年(平成8)文化功労者。写真集に『ある日ある所』『シカゴ・シカゴ』『桂』など。2012年(平成24)2月6日没。90歳。

【戦後日本の写真】写真

植田正治 うえだ・しょうじ UEDA, Shoji 1913-2000
鳥取県出身。西伯郡境町(現:境港市)に生まれる。米子写友会、日本光画協会、中国写真家集団、銀龍社などに参加。戦前、戦中、戦後にかけて活躍。 故郷の境港を拠点とし、鳥取砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」で世界的な評価を受けた。2000年(平成12)7月4日没。87歳。

【戦後日本の写真】写真

東松照明 とうまつ・しょうめい TOMATSU, Shomei 1930-2012
愛知県出身。1954-56年(昭和29-31)岩波写真文庫のスタッフ。1959年(昭和34)奈良原一高らと写真家集団「VIVO」を結成。社会派カメラマンとして戦後の日本を記録し、次世代の写真家に影響をあたえた。1975年(昭和50)日本写真協会年度賞。1976年(昭和51)毎日芸術賞、芸術選奨。1999年(平成11)日本芸術大賞。写真集に『太陽の鉛筆』『光る風―沖縄』など。2012年(平成24)12月14日没。82歳。

【戦後日本の写真】写真

奈良原一高 ならはら・いっこう NARAHARA, Ikko 1931
福岡県出身。1956年(昭和31)軍艦島と黒上村を撮影した「人間の土地」展で注目をあびる。1958年(昭和33)には和歌山の婦人刑務所と修道院を撮影して、写真展「王国」を開催し、この年の日本写真批評家協会新人賞を受賞。1959年(昭和34)に東松照明らと写真家集団「VIVO」を結成。1968年(昭和43)『ヨーロッパ・静止した時間』で毎日芸術賞、芸術選奨。欧米各地で個展をひらくなど国際的に活躍。

【戦後日本の写真】写真

牛腸茂雄 ごちょう・しげお GOCHO, Shigeo 1946-1983
新潟県出身。桑沢デザイン研究所修了。写真を大辻清司に学ぶ。幼少(3歳)から脊椎カリエスを患い、病気と闘いながら数々の作品を残した。存命中に発表した写真集『SELF AND OTHERS』では日本写真協会新人賞を受賞。死後再評価の気運が高まり、1994年(平成6)には『SELF AND OTHERS』が再刊、2000年(平成12)には同作品を題材にした映画も製作・公開された。1983年(昭和58)6月2日没。36歳。

【戦後日本の写真】写真

荒木経惟 あらき・のぶよし ARAKI, Nobuyoshi 1940-
東京出身。1963年(昭和38)、千葉大学工学部工学科写真映画専攻卒業後、電通に入社。広告写真を撮るかたわら、自分のスタイルを模索する。1964年(昭和39)、活力あふれる下町のこどもを主題とした写真集『さっちん』で第1回太陽賞を受賞。1971年(昭和46 )、妻陽子との新婚旅行を題材にした『センチメンタルな旅』を自費出版。私的な要素を強調した作品が写真界に反響を呼び、現代を代表する写真家として知られるようになる。2001年(平成13)以来「日本人の顔」プロジェクトをライフワークとして取り組んでいる。

【戦後日本の写真】写真

森山大道 もりやま・だいどう MORIYAMA, Daido 1938-
大阪府出身。1959年(昭和34)神戸の岩宮武二スタジオに入門。1961年(昭和36)写真家集団「VIVO」への参加を目指して上京するが、同集団解散のため元メンバーの一人細江英公の助手となる。1968年(昭和43)、寺山修司との共著『にっぽん劇場写真帖』は、荒い粒子と強いコントラストによる表現によって、1970年代の写真界に大きな影響をあたえた。同年「PROVOKE」に参加。1983年(昭和58)日本写真協会年度賞。2003年(平成15)『新宿』で毎日芸術賞。写真集はほかに『写真よさようなら』『光と影』『犬の記憶』シリーズ『ブエノスアイレス』など。

【戦後日本の写真】写真

田村彰英 たむら・あきひで TAMURA, Akihide 1947-
東京都出身。本名田村茂。1967年(昭和42)東京綜合写真専門学校卒業。卒業作品展で初期の代表作「家」を発表する。1970年(昭和45)から田村シゲルの名で、作品を多数発表。新しい写真表現の旗手として注目を浴びる。1974年(昭和49)ニューヨーク近代美術館で開催された「NEW JAPANESE PHOTOGRAPHY」展に、「家」シリーズを出品。1976年(昭和51)頃より田村彰英の名で活動。1979年(昭和54)より翌年にかけ黒沢明監督の映画『影武者』撮影にスチール写真担当として参加。1972−98年(昭和47−平成10)東京造形大学講師、1979年(昭和54)より東京綜合写真専門学校講師を務め、後進の指導にあたる。2002年(平成14)よりしのばずフォトスクール校長。

【戦後日本の写真】写真

畠山直哉 はたけやま・なおや HATAKEYAMA, Naoya 1958-
岩手県出身。1984年(昭和59)、筑波大学大学院芸術研究科修士課程修了。1981年(昭和56)、築地仁、島尾伸三との三人展でデビュー。コンクリート建造物によって構成された都市風景を俯瞰でとらえたシリーズや、石灰岩の鉱山を撮った「LIME HILLS」 シリーズ等によって、日本はもとより国際的にも高い評価を受けている。