1947年5月21日、シベリアで幾度となく夢に見た日本へ、
香月はついに帰ってきます。
妻に見送られて、下関から戦場へ旅立ったあの日から、
すでに4年あまりの歳月が過ぎていました。
戦争、そして過酷な抑留生活を耐え忍んで、
ようやくとり戻した家族との穏やかな生活。
しかし、肉体がシベリアから解放されたそのときから、
27年間の「追憶のシベリア」がはじまったのです。


1947

「帰国してからしばらくの間、私は意識的にかなり色を使っていた。暗い時の終わりを、色を使うことによって自分にもいいきかせていたのかもしれない。」

戦争とシベリア抑留によって奪われた時間をとり戻すかのように、帰国直後の香月は、戦前のクールで詩的なスタイルに暖かみのある色彩で「シベリア」を描きました。

《雨〈牛〉》《雨〈牛〉》

1948
《埋葬》《埋葬》

1949 - 1955

「《埋葬》を描いた後しばらくは、「シベリア」を描けなかった。」

1940年代の終わりから1950年代の前半にかけて、香月は動物や花、仕事場といった身近なモティーフを好んで描きました。なかでも、婦美子夫人が育てた野菜や台所の食材はお気に入りだったようで、香月は一時「台所の画家」とも呼ばれるようになります。

《彼岸花》《彼岸花》

1956

「ほんとうにシベリアをシベリアらしく、あったがままに描くためには、やはり10年の歳月が必要だった。」

平穏な日々のなかで、ふいに蘇る「シベリア」の記憶。断片的なその姿をとらえようと、香月は再び「シベリア」を描きはじめます。感傷的な回想ではなく、"シベリアをシベリアらしく"、あったがままに。

《左官》《左官》

1959

「長い間求めつづけてきた"自分の顔"を、私はついに発見した。」

「シベリア」を描き進めるために必要だったもの、"自分の顔"を発見した香月は、一点また一点と「シベリア」の記憶を紡いでいきます。しかし、肉体と記憶に刻まれた傷跡を手掛かりに「シベリア」を描くことは、ときとして精神的な苦痛を伴うものでもありました。

《北へ西へ》《北へ西へ》

1967

「描けば描くほど、思い出が思い出を呼んで新しいイメージがわいてくる。」

《復員〈タラップ〉》《復員〈タラップ〉》

1969

「古びた写真をそっくり写したつもりだが、妻の顔は実物よりはるかに美人に出来あがっていた。結婚して31年、長い間苦労をかけた妻への、恩返しの心が、無意識のうちに働いたのかもしれない。」

《護》《護》

1974

「シベリアを描きながら、私はもう一度シベリアを体験している。私にとってシベリアとは一体何であったのか。」

4年半の戦争とシベリアでの体験を、その6倍の年月をかけて見つめつづけた香月泰男。「シベリア」とは一体何であったのか。その答えを求めつづけて紡がれたシベリア・シリーズは、香月の死によってしか、完結しえないものだったのかもしれません。

《渚〈ナホトカ〉》《渚〈ナホトカ〉》

※《彼岸花》は香月泰男美術館蔵、それ以外の作品はすべて山口県立美術館蔵
※ 画家の言葉は『私のシベリヤ』、『画家のことば』およびシベリア・シリーズの自筆解説文から抜粋、適宜加筆・整理した。