香月泰男(1911—74)

1911年10月24日、旧大津郡三隅村(現在の長門市三隅)で、代々漢方医を業とする香月家に生まれる。幼いころに両親と離別し、厳格な祖父母に育てられた一人子の泰男は、無口でおとなしく、一人でいることを好む内向的な少年であった。1931年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科に入学。1936年に同校を卒業後、北海道ついで下関で教鞭をとるかたわら制作に励む。1938年、藤家婦美子と結婚。翌年には長男が誕生し、また第三回文部省美術展覧会で特選をとるなど、公私ともに充実していた矢先、召集令状を受ける。1943年、旧満州の部隊に配属され、大陸で終戦を迎えた香月は、そのままシベリアに輸送、旧ソ連の捕虜収容所で強制労働を課せられた。1947年5月帰国。以降、1974年にこの世を去るまで、戦争とシベリア抑留の体験を描き続けた。

「シベリア抑留」とは

第二次世界大戦後、旧ソ連は資源を開発するために、日本をはじめとする近隣諸国の捕虜をシベリアに送り、強制労働に従事させた。極寒のシベリアで満足な食事も与えられず、苛烈な労働を課されたことによって、数多くの抑留者の命が失われた。香月が最初に入った収容所でも、250名の同胞のうち、およそ30名、実に1割以上が栄養失調と過労によって命を落としている。日本人全体で60万人とも70万人ともいわれるシベリア抑留者のうち、どれだけの人たちが犠牲となったのか、正確な数字はわかっていない。

СИБИРЬ

シベリア・シリーズには、画面に香月さんのサイン以外の文字が描きこまれている作品がいくつかあります。漢字や数字のほか、アルファベットもありますが、なかには読めそうで読めない文字もちらほら。「あれ?これ、なんて読むんだろう?」そう思ったら、それはきっとロシア語の文字です。抑留中に耳で覚えたロシア語ですから、なかには綴りがちょっと違う単語もありますが、キリル文字とロシア語の響きは、厳しい労働に耐えながらひたすら故郷を、そして家族を想ったシベリアでの日々と固く結びついていたのでしょう。シベリア・シリーズに書き込まれたロシア語をいくつかご紹介します。

CИБEPИЯ(СИБИРЬ) シベリア
КАЗУКИ 香月
ЯСУО 泰男
AMUR(AMУP) アムール
TOKИO 東京
CKOPO すぐに
ДОМОЙ 帰国
БAЙKAP(БAЙKAЛ) バイカル
ИAXOTKA(HAXOДKA) ナホトカ

ロシア語のほか、画面に書きこまれた漢字や数字もそれぞれの作品と密接な関わりをもっています。絵のなかに文字を見つけたら、ちょっと立ち止まってその意味を考えてみてください。シベリア・シリーズは、きっとこれまでとはすこし違った風に見えてきます。